アントニオ・ネグリというイタリア人哲学者については何も知らないのだけれど、今日の朝日新聞文化欄の「ネグリ不在でも講演会大入りー『危機を突破』議論に熱」という記事や、フリー編集者仲俣暁生氏のブログ
「ネグリ中止の余波」などで、なにやら話題になっている。今日は何も予定がなかったので、ことの顛末について少しお勉強……▼アントニオ・ネグリという人について、まずは
ウィキペディアで調べてみたのだけれど、松岡正剛氏の
「千夜千冊」の「構成的権力」に書かれている説明の方がわかりやすい。
そして、あらためて仲俣暁生氏のブログのリンク先などをざっと目を通してみた中で一番興味をひかれたのは、東京芸大のシンポジウムに参加した方が
ブログに書き込んでいた 田中泯氏の言葉。
「本当に、すべてが「生産」なんですかねえ? すべてが「表現」ともいえない気もするが…。でも、止まっていても「表現」だし、戻っても「表現」といえるし…。例えば、5歳児が水と戯れて「この水いいね!」と言ったとする。で、63歳の私が同じことをしたとしても、これは同じではないですよね?」
「私は今、百姓をして暮らしています…。踊りは生きることそのものなので、特に仕事だとは思っていません…。でも、最近、踊りの仲間たちが「金がないから踊れない」と言うんです。もしかしたら、これが「生産」ですかね?」
「本当に誰もが分かる言葉を話す人はいないのか? 「内部にすべてがある。外部はない。」と言うが、分かるけど、分からないんだよ。分かるけど分からないことについて文句を言うのが「からだ」の権利だから、言うんだけどよ。ネグリがいたら、くってかかったはずなんだけどよ。」
「どうか万人に伝わるような話し方をして欲しい。」
アントニオ・ネグリ氏の来日中止の顛末とは関係ない部分なのだけれど……
ネグリ氏来日中止によって起こったイベント会場での議論や様子も、
こんなに早く見ず知らずの人間でも垣間みれるのですね
それも従来の大手メディアではなく、個人のブログを通じて…