あいにくの天気といいたいところですが、この季節の雨は嫌いではない。終日読書。

この列車は、ひとつひとつの駅でひろわれるのを待っている『時間』を、
 いわば集金人のようにひとつひとつ集めながら走っているのだ。
 列車が『時間』にしたがって走っているのではなくて。

 ひろわれた『時間』は、列車のおかげで
 はじめてひとつのつながった『時間』になる。

 いっぽう、列車にひろいそこなわれた『時間』は、
 あちこちの駅で孤立して朝を迎え、
 そのまま、摘まれないキノコみたいにくさってしまう。

 列車がこの仕事をするのは、夜だけだ。夜になると、
 『時間』はつめたい流れ星のように空から降ってきて、
 駅で列車に連れ去られるのを待っている

      (須賀敦子『となり町の山車のように』から抜粋)

須賀敦子の短いエッセイ『となり町の山車のように』を読みながら、
55歳を超えてから書き始めた彼女にとって、
書くということがどういうことだったのか、この文章から伝わってくる。

イタリアで暮らした遠い日々のことを、
「線路に沿って」時間(記憶)をひろい集めるようにして、
ひとつの物語に織る作業だったのだろう。
いくつもの夜を通りぬけながら。

日々安穏と暮らしている自分にも(きっと誰にも)
摘まれないキノコがある。
…が、こちらはキノコがどこに生えているのか皆目わからない。
きっと夜のキノコ狩りにも、季節はあるのだ。


このエッセイは、須賀敦子の子供時代の回想から始まる。

教室であの子はいつも気を散らしています」。

彼女の母は学校の先生に会いに行く度、いつもそう言われて帰ってきたという。

どうして、ちゃんと先生のいうことを聞いてられないの?
 母はなさけなさそうに、わたしを叱った。

 聞いてないわけじゃないのよ。わたしにも言い分はあった。
 聞いてると、そこからいっぱい考えがわいてきて、
 先生のいってることがわからなくなるの。
 そういうのを脱線っていうのよ。お願いだから、脱線しないで。

 脱線しないようにしよう。わたしは無駄な決心をした。


この書き出しもいい。


夜汽車に揺られて東京へ向かう16歳の須賀敦子。
線路脇の電柱を数えながらまどろみ、目覚めれば見知らぬ駅に
汽車はしばらく停車して、再び発車する。

そんなシーンから場面は大きく時を超えて、最初の文章へとつながっていく。

行き先のわからないタイムマシーンに乗せられた気分になるのも
須賀敦子のエッセイの特徴だ。


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