昨日は夕方、来客。古くからのお取引先の方で、現在は東京勤務。
今では、ある事業を任されていて、その事業の今後についてのお話。
現状について一通りお伺いして、自分なりの意見を述べさせていただく。
…とはいえ、それが実際的に彼のお役に立てるとは私自身は思っていない。
年に数回、突然(今日は昼に電話)連絡をいただき、
このようにしてお会いするのだが、
彼が必要としているのは実際的な情報ではなく、
話しを聞いてくれる相手なのだと思っている。
今でも連絡をいただくのは、聞き役という点では多少なりとも
お役に立てているのかもしれないし、そうであればうれしい。
震災以降、いまが読み時ではないかと最近気になっている本が
中沢新一とビクトール・フランクルの『
夜と霧』。
『夜と霧』はナチス強制収容所の体験記 で、
近所の古本屋で幾度となく手にしながらこれまで買わずじまいだった。
昨日の朝日新聞夕刊の「人脈記」でも取り上げられている。
いまでは、新訳も出ているらしい。
みすず書房の編集者が序文に書いたという
「知ることは超えることであると信じたい」
という言葉は、戦争だけでなく、震災においても、
ビジネスの世界においても、もしかして恋愛においてもね、
非対称の状況を乗り越えようとする時に
力を持つものだと、私自身も思っている。
中沢新一については『
カイエ・ソバージュ』を読む前に、
911直後に書かれた『
緑の資本論』から読み始めている。
中沢新一は本書を書くきっかけとして、こんな一文を序文に書いている。
「イスラームに対する無知や偏見への憤りが
『緑の資本論』を書いている」
「知ることは超えることである」と信じながらも
その先に個々人がどう振る舞うかは約束されるものではない。
ビクトール・フランクルの
「(どんな状況下であれ)与えられた事態にどんな態度を取るかという
人間の最後の自由を奪うことはできない」
という言葉もこころに響くなぁ。