大橋鎮子さん

    雨の雫が瑞々しいコバノミツバツツジ。
大橋鎮子さん

春の嵐が過ぎ去って、今日はうってかわって快晴。日本平桜マラソンも、静岡まつりも、ミッキーのパレードも予定通り催されたらしい。よかった、よかった。

午前は水泳場に行くつもりだったが、整備中で使えないとのこと。かわりに、先日取材したインタビューノートのテープ起こし、後半戦。今回は、静岡県内の大学生たちが作るフリーペーパー『静岡時代』を発行しているNPO法人静岡県大学生大学院生ネットワークしずおかGENTEN理事長の鈴木智子さんに“今の大学生はすごいぞ”というお話をお聞きした。明日の昼、第1回目が公開されるので、【日刊いーしず】(こちら)をご覧いただきたい。

先月の23日、暮しの手帖社社主の大橋鎮子さんが亡くなられた。93歳。4月1日になって報道され、訃報を知った。『暮しの手帖』といえば、名編集者で、デザイナーで、イラストレーターでもある花森安治が表看板である。最近では、松浦弥太郎氏のほうが有名かな(松浦氏が編集長に就任したときのこと)。ぼく自身は『暮しの手帖』の読者とはいえないが、雑誌作りの仕事を始めたころ、過去に名編集者と呼ばれた人たちの手がけた仕事をたどった時期があって、中でも花森安治に魅かれた。

広告を一切入れず、他のどんな雑誌にも似ていない孤高の雑誌(にみえた)『暮しの手帖』の編集長ということもあるが、彼の手がけたコピーや雑誌デザイン、レタリングなど、その独創性と洒落た感覚が独自の世界を作っていて興味をもった。決して彼の、おかっぱ頭や女装風のファッションにだけ驚いたのではない。そして、不思議に思ったのが、個性の強い編集長・花森安治と社長である大橋さんの関係である。そして、年齢を重ねるごとにぼくの関心は、花森安治から社主の大橋鎮子さんへと移っていった。

大橋鎮子さんが25歳で出版社を立ち上げたことや、日本読書新聞の田所編集長に紹介されて花森安治と出会ったこと、『スタイルブック』を創刊し、その後『美しい暮らしの手帖』(後の「暮しの手帖」)へと続くことなど、ぼくはどの本を読んで知ったのだったか。結局、午後は、『花森安治の仕事』(朝日文庫・酒井寛)や、大橋鎮子さんが90歳の時に出版した『「暮らしの手帖」とわたし』(暮しの手帖社)を読み返す。

社主でありながら一編集者でもあった大橋さんが、花森安治に叱られたり、原稿を真っ赤に書き直させられたり、人前では常に花森安治の後ろにいたり…そんなエピソードから想像される彼女は、控えめで大人しく、花森安治に支えられた女性といったイメージをもたれやすい。でも、『「暮らしの手帖」とわたし』を読み進めると、実は、本当に大切なことはみんな大橋さんが決めていて、彼女が用意した環境の中でこそ、花森安治は安心して雑誌作りに専念できたのではないか…、そう思えてきた。

それが社長の仕事でしょ、といういい方もできるし、自分で決断し実行することは、当たり前のことのように思えるが、では、社長になれば誰にでもできることか、といえば、そういうものではないと思う。

若くして父親を亡くした彼女は、小学生であったにもかかわらず、長女ということで戸主になる。以来、母親と妹たちの生活を支えようという意識が強くなる。女学校の時には、「歯磨き製造」の事業を始めたり(すぐに失敗)、25歳で出版社を創業したのもお金を稼ぐためであり、資金繰りが苦しくなれば銀行の元同僚にかけあって大金を借り入れしたり…、そのほとんどを自分一人で決めている。

エッセイから感じられる繊細さに加えて、編集者として、川端康成や天皇陛下第一皇女の東久爾成子さんに原稿を書いていただく場面からは、物怖じせず大胆で、何ごとにもまっすぐ向かう芯の強さが伝わってくる。そんな大橋さんの人柄が、生涯にわたり、ぶれることなく『暮しの手帖』を支え続けられた要因なのだろう。それにしても、90歳になっても編集部に出勤していたとは驚きである。

大橋鎮子さん



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