9月1日号の『ブルータス』、柳 宗理の言葉から
これからのデザインは、物を捨て去った後のことまで考えねばならないだろう。今日のデザイナーは人類文化に役立っているとはお世辞にも言えない。
機械時代になって、その製品に醜いものが多いということは、デザインというものがあるからだと言われても仕方がない。
殆どのものがデザインされているにも拘わらず、その殆どが醜いとは、結果的に見て、今日ではデザインという職業がない方がよいかもしれぬとまで考えられるのである。
もっとも、今日の機械時代においても、素晴らしいデザインが、僅かだが存在し、また生まれつつあることも事実である。この少数の素晴らしいデザインが、デザインの名誉を僅かながらもすくってくれているのだ。
もっともデザイナーがいなくても、各技術が有機的にうまく融合されている場合がある。これはアノニマス・デザインと言われていて、大変美しいものである。野球のバット、グローブ、科学実験用のフラスコ、ビーカー、或いは人工衛星等。
アノニマス・デザインは、今日の汚れたデザイナーが到底タッチできないほど、素晴らしく神聖なものである。
民藝も、アノニマス・デザインの一種である。
アノニマス・デザインに比べて、デザインされているものが殆んど醜いとは、それを構成しているコンポーネントの融合に何か有機的でない不純の異物が混っているからであろう。
柳 宗理『デザイン 柳 宗理の作品と考え方』(1983年、用美社)
この言葉が、今から20数年前の言葉ということに驚きました。今読んでも説得力があるということは、柳 宗理に先見の明があったのか、それともこの20数年の間に世の中に進歩がみられなかったのか。
情報の整理の仕方がデザインを左右するガイドブックづくりにおいてもアノニマス・デザインを語ることはできます。一見インパクトのある、個性的で自己主張の強いデザインも魅力的ですが、最近はおさまるべきところにすべてがきちんとおさまった佇まいの美しさや、これ以上どこも動かし用もない強さを秘めたデザインに惹かれます。