家康と駿河版銅板活字
駿府城内で作られた駿河版銅活字の字面。寸法は深さ12.4ミリ、幅16.5ミリ、高さ17.7ミリ。

静岡市クリエーター支援センターで行われた「徳川家康と駿河版銅板活字」の講演を聴きに行ってきた。「駿河版銅板活字」というものがあったらしいということは知っていましたが、きちんと話を聞くのは今回が初めて。「駿河版銅板活字」は、徳川家康が駿府城内でも鋳造(最初は京都円光寺で鋳造し、2.3回目が駿府城)させた銅活字で、約11万個も作成したのだそうだ。

26文字の組み合わせで表現できるアルファベットと違い、日本語は漢字、かな文字など膨大な数が必要なわけだけど、それにしても11万個とはすごい。今これを書いているPCの中にも、それほどの数のフォントは積んでいない。当時の出版事業がどれほどお金と時間のかかるものだったのかは、ぼくらの想像を大きく超える一大事業だったことは間違いない。それにしても11万字の文字を書き分けた(読めた)ことに驚く。

この「駿河版銅板活字」を使って印刷・出版された本は、1615年の『大蔵一覧集』(125部)と1616年に『群書治要』(47巻、約100部)の2種類のみ。「武」による支配ではなく「文」による平和国家づくりを目指した家康が亡くなった影響が大きい。講師を務めた印刷博物館学芸員の緒方宏大さんのお話は、当時、家康だけが出版に意欲をもっていたわけではなく、御陽成天皇や豊臣秀頼、直江兼続などとの間で出版による権力争いがあったという話や江戸時代の印刷文化など、とても興味深い内容でした。

写真下左は、京都で流行っていた服装や化粧などを紹介したファッションガイド『都風俗化粧伝』(1813年)、右は人気の料亭の料理を紹介したグルメ本『料理通』(1822年)。それから吉原の街歩きガイドが流行るなど、いまも昔も庶民の関心毎は変わりませんね。

それにしても弊社事務所の隣の駿府城公園の中で、家康が鉛活字を鋳造させていたとは…。
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