このところ「働くこと」についての議論がにぎやかです。内容は、働く目的や働き方、職場や制度などさまざまですが、そのような場面では、うまくは言葉にできませんが、「働くこと」の総体から何か大切なものが欠落した感覚になることがあります。

先日、三木清の『人生論ノート』を読みながら、こんな言葉に出会いました。「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何かであるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考える人間こそ、誠に憐れむべきである」、そして「幸福は質的なもの、成功は量的なもの」。

三木清のこの言葉に出会い、気づいたのは、自分が感じていた欠落感は「はたらくこと」で得られる幸福感についてかな、と。わたし自身は「はたらく」ことはその両面、成功(お金や地位)という計量可能な側面と、幸福の実現(誰かに必要とされている実感、自分の居場所があるという安心感、自己実現など)という質的な側面、の両面を実現可能にできるもの、と(幸いなことに)考えています。簡単ではありませんが、やりがいがあり、豊かな行為。ですから、成功(損得で測りやすい事柄)という側面と同様に、幸福の実現という視点からの議論もしてみたい。

「私の書いた本がたくさん売れて印税がたくさん入っただろうと、うらやましがられることがある。それは「成功」といえるけど、それで私という人間が変わるわけではないし、えらくなったわけでも、幸福になったわけでもない。うらやましがられるのは、成功についてでしょう。
 私の幸福は何かと言えば、例えば、プラトンの『ティマオス/クリティアス』を苦労しながら古代ギリシャ語から翻訳をする仕事をすること、これが私にとっての幸福なこと。でも、誰も羨ましいとは思わないでしょう」(岸見一郎「人生論ノート」を読む」白澤社)


三木清は「幸福は各人においてオリジナルなものである」とも言っています。成功について語るのと同じように、それぞれのオリジナルな幸福についても語ることができたら、何かが変わるような気がします。


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成功について語るように、それぞれのオリジナルな幸福について語ること。




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